【 大雪注意報 】
H15.12.21

皆様はじめまして、埼玉志木特派員のgiichiです。

九州生まれですが、数年前かららタンシン不妊いやいや単身赴任で、
家族を地元に置き去りにし、毎日楽しくすごしております。

kuma3とは同期です。先日、出痔亀持っていることがばれちゃいまして
強引に特派員にさせられました。

私はむかしはず〜〜と昔のその昔、
映画「赤胴鈴之助」の子役に出たことのあるあるんですよ。ehhen

で、昨日は寒かったですね。
全国的に雪が降りましたが、埼玉もご覧のよう。

東武東上線 柳瀬川駅ホームから撮りました。


これが私のねぐらです。


私の住まいは柏町。kuma3は柏市。一文字違えば大変なことに・・・!
私の最寄りは東上線柳瀬川、こちらも一文字も違えば<柳川>

そうそう、福岡特派員さんが、<柳川>の報告をしていらっしゃいましたが、不思議な縁です。私もお見せします。

ちょうど、家族で柳川を訪れた時のスナップです。

白秋の生家
柳川「御花」 西洋館

申し遅れました。大雪の写真は昨年の12月9日の話です。あやうく間違えてお伝えするところでした。
すっかり忘れていました。 ではまた。

giichi


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kuma3より一言ふぉそく


柳川「御花」
は、実は私の会社(もちろんgiichi3も同じ) の
関連会社シャチョー3の生家なんです。それはそれは恐れ多いんです。お殿様ですから。

kuma3もこのシャチョー3と良く話しをします。で、ちょっとご紹介。こんど、登場していただきましょうかねえ。


 

 〜 御花のHPより 〜

 ■ 柳川と立花家

 戦国時代、豊臣秀吉の九州平定の際、豊後大友氏の先陣として活躍した立花宗茂は、
 その功により、筑後十三万石の城主として柳川を城地と定めました。
 
 その後関ヶ原の戦いの際、秀吉への恩義から西軍に味方した立花宗茂は、
 柳川を追われ、かわって柳川に入封した田中吉政が柳川城の建設や城下町、堀割の整備に着手しました。
 二十年後の1620年、再び立花宗茂が城主となり、以後柳川は、明治維新時の十三代立花鑑寛まで、
 立花藩の城下町として栄えました。

 ■ 「御花」の由来
 1697年、四代立花鑑虎が、四方に堀を廻らせた総面積約7,000坪のこの地に「集景亭」と
 名づけた別邸を構え、遊息の地としました。
 当時この地域が、「花畠」という地名であったことから、柳川の人々から「御花」と呼ばれ今日に
  いたっています。明治42〜43年には十四代立花寛治によって、現在の建物・庭園の大部分の
  新築が行われ、西洋館と大広間、宴遊会場といった当時の建築様式を代表するものになっています。
 仙台藩松島(現宮城県)にみたてた松濤園と呼ばれる庭園は、昭和53年、国の名勝に指定されています。


もちろんkuma3はまだ行ったことはアリマセん。