【 あゝ上野駅 】
   H19.2.25 H19.1.27 H19.1.20 H19.1.19 H15.7.9

H19.2.23 日本経済新聞 夕刊 より

やっぱり、私も 井沢八郎が 忘れらぬ。

どうしても、忘れられぬ。

もう、あの歌は聞けない。

でも、何回でも聞く。飽きるほど聞く。死ぬまで聞く。

いつまでも、この伸びやかな声をお聞きください。
ビデオもありますね。

また悲しくなってきた

kuma3

H19.2.25

追悼

まず、この伸びやかな声をお聞きください
ビデオもありました。

kuma3なんだか知らないが、この歌を聴くたびに涙が出るんです。 本当に素晴らしい歌でした。

H19.1.27




【追補】  H19.1.20

日本経済新聞 (H19.1.20朝刊)


【追補】  H19.1.20
 「あゝ上野駅」 モニュメント前

モニュメントも泣いていた



献花に言葉が添えられていた。


『 八っちゃん 残念! 無念!。

君の歌で俺もどんなに勇気づけられたことか。

就職列車で上野についた頃が思い出されます。

八ちゃん安らかに。 』



泣かせる !

会社の帰りに、上野駅の外をちょうど通過した。

気になって、モニュメントによってみた。深夜11時。

携帯電話でパチリ。

改めて、合掌。

H19.1.20



昨日の夕刊フジによると、井沢八郎さんが食道ガンで亡くなったそうだ。69歳。

私のとっての「あゝ上野駅」は、なくてはならない歌だった。何回歌ったことだろう。

あの伸びやかな歌声が大好きだった。うれしかった。悲しかった。


特に3番が好きだ。


ホームの時計を 見つめていたら
  母の笑顔に なってきた
  上野は俺らの 心の駅だ
  お店の仕事は 辛いけど
  胸にゃでっかい 夢がある 

あ〜あ、母の顔が浮かんできた。

青春をありがとう。 合掌。

H19.1.19

わたしは、この歌が大好きだ!。イントロも好きだ。
〜一度このとおり、口ずさんでくださいませな〜

(ら〜〜ラ・ら〜〜ラ、らら・らぁ〜〜ら♪、ラ〜〜ラ・ラ〜〜ラ、らッら・らッら・らぁ〜〜♪)
(ララったララララ、ララったララララ、らぁ〜〜ラ・ら・らぁらラ〜〜) ッタ・タ・タ・タ!

 どぉこかに故郷ぉのぉ〜〜香りをのぉせて〜〜♪♪ 



変に飾らず、一生懸命、腹の底から全身で声を出している感じの井沢八郎がとても好きだった。

今でも、口ずさむこの歌。いつになっても忘れない。

昭和39年(1964)といえば、もう40年も前の話。いやになっちゃう。

あの頃はホントにいろいろ楽しかった。スクーターを買ってもらって通学したものだ。

昭和35年
中1
・第一次池田内閣、カラーテレビ発売、ダッコちゃん (潮来笠、誰よりも君を愛す、アカシアの雨がやむとき)
昭和36年
中2
・伊那谷36災害、ガガーリン地球一周 (上を向いて歩こう、王将、北帰行、銀座の恋の物語)
昭和37年
中3
・国鉄・三河島事故、堀江謙一太平洋ヨット横断 (いつでも夢を、遠くへ行きたい、下町の太陽)
昭和38年
高1
・名神高速開通、吉展ちゃん事件、鉄腕アトム (高校3年生、こんにちは赤ちゃん、美しい十代)

昭和39年

高2
・東京オリンピック、東海道新幹線開通 あゝ上野駅、学生時代、幸せならてをたたこう、君だけを)
昭和40年
高3
・ベトナム戦争、日韓国交回復、ベンチャーズ来日 (涙の連絡線、さよならはダンスの後に、女ひとり)

こうやって振り返ってみると、
吉展ちゃん事件の<南千住>、三河島事故の<三河島>、そしてあゝ上野駅の<上野>
みんな私の通勤経路(ジョーバン線)、不思議、ふしぎ。


このたび、上野駅広小路口に「あゝ上野駅」の歌碑がこの7月6日に完成した。というわけで、ご報告。

あのファイティング原田さんが会長だったとは。

この写真が、レリーフの元になった写真。

あゝ上野駅 

作詞 関口義明 作曲 荒井英一 唄 井沢八郎


1、どこかに故郷の 香りをのせて
   入る列車の なつかしさ
   上野は俺らの 心の駅だ
   くじけちゃならない 人生が
   あの日ここから 始まった

2、就職列車に ゆられて着いた
   遠いあの夜を思いだす
   上野は俺らの 心の駅だ
   配達帰りの 自転車を
   とめて聞いてる 国なまり

3、ホームの時計を 見つめていたら
   母の笑顔に なってきた
   上野は俺らの 心の駅だ
   お店の仕事は 辛いけど
   胸にゃでっかい 夢がある

H15.7.20

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