遺稿 |
1.水泳へのあこがれ 若い頃,「クロールができないと言うことは水泳ができないと言うことと同義語である。」と言う文章をなにかで読んだことがある。南信州に生まれ育った私は少年時代には天竜川でよく遊んだものだ。夏休みになると、近くの友達を集めて水泳場に泳ぎに行った。夏の間だけプールになる養魚場だった。指導者がいないので勝って気ままに泳いでいた。平泳ぎしか出来なかった。学生時代もずっと平泳ぎしか出来なかった, 社会人となり会社勤めをするようになって,クロールへの憧れは続いた。本格的に水泳を覚えたいと想いになったのは40歳半ば過ぎてからである。それはトライアスロンへチャレンジするための必要性からであった。水泳は「絶対にマスターしなければならない課題」になっていた。「こつこつやって絶対に成功して見せるぞ!」と意気込んでいた。 市の広報で夏季「水泳教室」があることを知った。7月と8月の2ヶ月で全8回の講習会である。受講者は12人男女は同数で比較的若い人が多かった。 指導者は市から委託された水道工事店を経営している人だった。水泳指導者としての意気込みには感心した。「この講習会は全部で8回である。前後の2回を除くと実質6回しかない。この間で君達全員にクロールが出来るようにして見せる!」と言い放った。私達は半信半疑で期待と不安に満ちていた。 水泳は「け伸びに始まってけ伸びに終わる」と言っても過言ではない。体をまっすぐ伸ばした体形となり,プールの縁をけってどこまで進むかで大体わかる。 初心者では5mくらいで体が沈んでしまう。先生は10m以上進む。どこが違うのだろうかと不思議に思った。生徒たちは緊張して余計な力入っているからである。何のスポーツでも相であるが体に力が入ると思うように記録が出ない。水泳の場合とくに顕著であろう。 講義の後「けのび姿勢」「ばた足」「手のかき」「息継ぎ」など実技へ進んだ。初心者にとって「息継ぎ」は特に重要である。「ブクブク,パー」または「ン,パー」どちらが良いのか悩んだ。 「ウンン,ぱあー」と強く吐けば調子いいことがわかってきた。息を吸おう!吸おう!と意識すると余計だめだった。 プールの短い方約12mが何とか泳げるようになってきた。クロールへの道が開かれてきた。すばらしい速習法により,ほぼ全員が泳げるようになった。最終回の前に「卒業試験?」が行われた。先生がビデオ撮影をしてくれた。プールの長い方25mを泳げれば合格である。「やったぞ〜!」私は35m泳げた。 最終日,先生はビデオ見ながら講評会を開いてくれた。私は格好はまあまだが息継ぎがぎこちなかった。そして親睦会は盛りあがった。みんなクロールができるようになって喜んだ。講師の教え方が良かったのだろう。わずかな期間であったが実り深い講習会であった。 |
2.健康作りと水泳同好会の設立 普通のサラリーマンが勤め帰りに何をして帰るかは千差満別である。運動系とドリンク系あるいは勉強系に分かれるのであろうか。 私はリフレッシュ効果が高い水泳が最適だと思った。クロールができるようになりうれしくて仕方なかった。 練習する距離は次第に伸びていった。100m,400mそして1500mまで挑戦するようになっていた。ショートのトライアスロンに出場できる自信も沸いてきた。生涯目標として「水泳の全泳法をマスターしたい」と思うようにもなった。 東京体育館の水泳教室にも数回通ったことがある。この指導員いわく「水泳はバタ足のキックだ」という。指導員に最初の頃,毎日ビート板で1500m泳がされたそうだ。このときの苦労が今の自分にとって一番の肥しになっていると言った。 週一回の水泳とエアロビクスを習慣にしていた時期がある。仕事の疲れを癒すためであった。一般のサラリーマンで退社後,「赤ちょうちん」でいっぱいやることを唯一のストレス解消としている人は結構いる。近年,運動不足で成人病に悩む人々を多くみかけるようになった。健康作りについて真剣に考える時期になってきた。水泳はプールが近くにあれば気軽にできるスポーツだと思う 会社の仲間を集めて「水泳同好会」を作りたくなった。サラリーマンが勤め帰りに、会社の仲間と一緒に泳ぐことができれば楽しい。新宿区水泳連盟で会員を募集していた。個人と団体とがあった。団体の部に登録した。年間2万円の会費で毎週水曜日には専用のコースで、泳ぐことができる。大勢が登録すれば利用料も通常より割安となる。20人もの社員が協力してくれた。連盟の団体登録として民間企業は珍しかった。 毎週水曜日を練習会にして活動が始まった。指導員がいたので技術指導面での不満はなかった。会員が協力してくれて有り難かった。独自の記録会も数回行った。
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3.競技会に参加 暇を見つけてはいろいろな水泳の講習会に参加した。クロールができるようになると長い距離を泳げるようになり競技会にも出たくなった。 トライアスロンを目指す人にとって,ランと自転車は出来るがスイムができない人は結構いるものだ。ショートのトライアスロンはスイムが1500mである。この距離が当面の課題になっていた。速く泳ぐには結構スタミナがいる。泳いた後の爽快感は抜群である。あちこちの水泳教室を物色しては出かけていった。各種の泳法にもチャレンジするようになっていた。 新宿区水泳連盟の「初心者バタフライ講習会」は大変ユニークなものだった。筑波大学,高橋教授の新指導法は実りある有意義なものだった。最初に言った言葉は「今までの水泳の概念をすべて忘れてほしい!」と言い放った。赤ちゃんは水中に入ると手足を動かしているだけであたかも溺れているように見える。このときのスタイルがバタフライの始まりだという。バタフライにはある一定のリズムがあるという。水の上にばたんと「伏し浮き」で手足を広げたスタイルである,手足を「バタン,バタン」と水をリズミカルに叩くだけだ。そしてドボンと頭を水中に突っ込みうねって浮かび上がるだけである。「ドボン,バチャア‐ン」と言うリズムで泳ぐことだった。最初はこんなスタイルでリズミカルに泳げるのかと思った。しかし私にとって新指導法はマッチングが合っていた。バタフライで泳ぐことに非常に興味が沸いてきた。長い距離を楽に泳げるようになり私の特技っとなった。腰の柔軟性をつけるのにもいい。健康作りに関しては本当に役に立った。 一般人やアスリート向けに各種にイベント(練習会)を企画することに興味が沸いていた。「遠泳バタフライ練習会(2km)」というイベントを開いたことがある。「10kmスイム大会」も開いた。このときは約10名の参加者があった。50mプールで100往復である。1時間ごとに10分休憩し泳ぎに泳ぎまくった。6人の参加者が完泳した。参加者の顔ぶれもユニークだった。待ち合せ駅にかなり太った人が待っていた。腹は出ているしとてもスイマーとは思えなかった。しかしこの人は10kmを完泳した。太っていても泳ぎの上手な人がいるものだ。真っ黒に日焼けした体で記念撮影をした。【写真1】 |
4.海や川で遊ぶ 少年時代を海なし県(長野県)で育った私にとって,海を最初に見たのは小学校5年生のときだった。父母が家族旅行で東海地方の浜名湖につれていってくれた。「海は広いな〜大きいな〜♪」と海へのあこがれは強かった。少年時代から海を泳ぎたい願望があった。 社会人となり,会社の「海の家」は茅ヶ崎にあった。夏の楽しみのひとつだった。クロールが出来るようになったので,楽しくなった。三浦海岸遠泳大会にトライアスロン友人と参加したことがある。海岸から100m程の沖合いに1kmのロープが張ってあり,そこを2周回するのである。スタート直後は名スイマーの雑踏だった。約1時間40分でゴールことが出来てうれしかった。1位は元オリンピック選手で約1時間で泳ぎきった。こんなにもスピードが違うものかと思った。2回連続して出場し,海で泳ぐことの楽しさも満喫した。 「天竜下りトライアスロン」と言う練習会を開催したことがある。専門誌に掲載して6人の参加者が集まった。川くだりの講師は私が行った。年輩の女性は郷里の実家近くの出身だった。水泳指導員でもあった。このイベントは大型トラックのタイヤのチューブを浮き輪にして川を下るのである。天竜川の渓谷で急流にもまれながら豪快で楽しいイベントだった。【写真2】 埼玉県の荒川上流でも同様のイベントを企画した。この時にも年配の女性が参加してくれた。彼女も水泳指導員だった。 その後も何人もの「異色水泳マニア」と出会った。「遠泳バタフライ練習会」と称して雑誌にも掲載したことがある。この女性は海を泳ぐ「オープンスイム」マニアであった。東京周辺の遠泳大会に参加している様子。職業はなんと「助産婦」だった。特殊な環境でありながら水泳を楽しみながら生きている姿に感動した。 |
5.同好会の活動 会社で水泳同好会を設立した。会員は6人となったが現在も存続している。新宿区スポーツセンター(高田馬場)の近くに移動したので,好都合だった。 ある営業マンは真夏の暑いときに,ひと泳ぎしてから会社に戻って残業していた。首都圏ではあちこちに温水プールがあり便利である。水泳をした後の爽快感は他のスポーツでは得られないものだ。 歳月は流れ、15周年が過ぎた。会員の平均年齢も50才を過ぎた。2年前,川越市の市民水泳大会に出場した。朝7時に集合して「飛び込み」の練習をした。チームで200mメドレーリレーに出場するためである。この種目は初めての参加であった。その後各自の得意種目に出場した。昼食後,皆疲れたとのことで最後の「フリーリレー」は欠場した。 参加者は圧倒的に小中学生と高校生が多い。一般人は水泳クラブなどに入会している人がほとんどである。大会終了時の「本大会では一般人からの参加者が増えたことは大変うれしい」と講評された。私達の同好会のことを言っていたのであろう。一般参加者は少なかったが全員入賞した。この時ほど水泳同好会が存続していて良かったと思ったことはない。【写真3】 |
6.水泳を生涯の友に 還暦を過ぎて日曜日の「朝ランと朝スイム」は私の健康作りとして定着してきた。坂戸水泳連盟の入会し,早朝のスイミング可能となった。泳法や技術の練磨に役に立っている。近郊都市の市民水泳大会に出場した。60才以上の部で「大会記録がない種目」にチャレンジすることが唯一の楽しみになってきた。 昨年の末,私の人生に「最悪の大事件」が起きた。病院での健康診断で「君の家はどこだ!今すぐ奥さんに電話しなさい!」と医者が驚きの顔で言い放った。 近くの病院での事だった。最大難治の【すい臓ガン】である。既に肝臓にも転移した最悪進行ガンであった。翌日,妻と共に埼玉医科大学病院を訪れた。画像診断と精密検査の結果は同じだった。手術不可能で治療方法は化学療法しかない。「余命数ヶ月」と診断された。「あ〜あ,これで俺の人生は終わりか!」と頭の中が真白になった。 その後,セカンドオピニオンと言うことで「埼玉県立ガンセンター」も訪問した。見解は同じだった。すい臓ガンには「1年生存率」と言葉はないと言うのである。統計上の生存確率極めて低いからである。 体には外面的には異変は何もない。11月末で職場を退職することにした。妻や子供たちのことを考えるとその後不安と恐怖で眠れなかった。 年の瀬に水泳同好会で「忘年会」を開いてくれた。懐かしの一杯飲み屋で「水泳談義」をした。そして2次会のカラオケにも行き時のたつのも忘れ盛りあがった。 正月は家族全員集まったが重苦しかった。ガンとの「つき合い」が始まった。いろいろな医学書やインターネットでガン治療の記事を読みあさった。参考となる明るい兆しの記事は何もなかった。 12月中旬から始めた化学療法が効果が現れ,いまは順調で普通に生活している。1月末には「兄弟会顔見せ会」を開いた。久しぶりに兄弟皆と会えてうれしかった。 その後,仲間で「水陸同好会」の新年会も開いてくれた。坂戸市の公営プールで久々のスイミングを楽しんだ。昼食をしながら四方山話に花を咲かせた。そして妻の喫茶店へと集まった。「人が病に陥ったときに励ましてくれる人がいる」ということは本当に有り難いことだ。胸が熱くなり心の中に涙があふれた。 熊さん「病は気からだよ!」「生きて生きて生きぬくんだよ〜」「楽しいことに没頭しNK細胞を増やして!」など有り難い言葉ばかりだった。会社人間としてリタイヤした後でも人との付き合いが大切だ思ったことはない。今これを肌身で感じている。 ガンの延命治療には各種の方法がある。私は多くの人と喜びや悲しみを共存しながら普通に生きて行く。人は楽しいことや何かに真剣に打ち込んでいるときにはNK細胞(ガン殺し屋細胞)が増えるのだと言う。このことを信じて,スポーツを楽しみながら自然治癒力を増して延命したいと考えている。延命のため「おぼれる者は藁をもつかむ」ではなく,大海原をイルカのようにゆっくりと泳ぎたい。大好きな「遠泳バタフライ」で生きぬいていきたい。ガン患者として,「スポーツ治癒力」で延命が達成できたら出来たら本当にすばらしい記録となる。 完 |